嫁さんとの出会いそして香港へ移住

坊主頭とビバリーヒルズ青春白書

海外と言う言葉を意識し出したのは中学時代だった。

学校校則が厳しく、

あの当時(20年以上前)だったから

許されたのかも知れないがかなり体罰はあった。

男は全員丸刈りで、

教師が手で生徒の髪を挟みそこから毛が飛び出ていれば、

生活指導室に連行され説教と反抗的な態度を取ればフルボッコと言う

かなり結構な環境だった。

そんな辛い3年間の生活の中で唯一自分が、

心を癒されていたのがビバリーヒルズ青春白書という、

金曜だったか土曜日の深夜にN H Kで放送されていた

アメリカの高校を舞台にした学園ドラマだ。

自分の部屋にテレビを置いて貰えなかった。

深夜、エッチなテレビ番組を親にバレずに観るための、

チャンネルの切り替え先がN H Kだった。

そこでたまたま放送していたのがビバリーヒルズ青春白書だった。

地獄の様な日々を過ごしていた自分にとって、

パーティや学園生活を謳歌する主人公たちのライフスタイルに心奪われた。

アンコウ鍋と暴走族の原産地である茨城北部の片田舎で育ってきた私。

私の心を揺り動かし、日本を離れ海外で生きると言う目標であり、

夢を抱くきっかけになったのがあの番組だったのは確かだ。

これだ、俺にはこれ(海外)しかねぇっぺよ!と。

海外経験

私の香港移住前における海外経験は、

高校一年の時に交換留学プログラムで

3週間掛けてアメリカとカナダを訪れたこと。

そして二浪時代の戦友と二人、

大学一年の時に旅をしたインドネシアの二度だけだ。

だがこれら経験ですでに自分の中では

日本ではなく海外が自分の肌にはあっていると確信した。

嫁さんとの出会い

2004年11月渋谷駅構内で嫁さんに出会った。

きっかけは道案内。

当時嫁さんは、

自分の誕生を祝うために元彼と二人で日本に来ていた様である。

今でこそ渋谷駅はだいぶ様変わりしているので

迷うのも理解できるが、

出会った当時の田園都市線の渋谷駅構内はそこまで複雑ではなかった。

109近くを歩いているときに「スミマセ-ン」と日本語で声を掛けられた。

イントネーションから日本人でないことはわかった。

J R駅にはどうやって行けば良いですか?(英語)。

なんて言って分からず言葉に詰まった。

だが

とっさに出たがセリフがそこまでお連れしますよ、だった。

指をさしながら、あっちと言えば十分だったのに、

心が道案内をすると瞬時に判断してくれたようだ。

目的地のJ R駅の改札まで会話もせずただ歩いた。

目的地に到着し嫁さんからありがとうと言われた。

普通であればどういたしまして、で終わるシーンのはずだったが、

なぜかメールアドレスを教えてくださいと口走っていた。しかも英語で。

あの当時、

パソコンなど持っていなかったし

Yahooなどのメールアドレスも当然持っていなかったので、

ドコモのメールアドレスから嫁さんのYahooのアドレスに

何か困ったら連絡をくださいとだけメールしたのを覚えている。

フィッシュオン

それからメールや時々嫁さんからかかってくる国際電話でのやりとりが始まり、

香港と日本で遠距離恋愛なるものがスタートした。

当時嫁さんはイギリスのヴァージンアトランティックと言う

会社で客室乗務員をしていた。

航路は香港とイギリスだったので日本に仕事で来ることはなかったが、

スタッフ用のチケットを使い毎月の様に日本に来てくれていた。

当時は学生だったので、

結婚はしていなかったが

配偶者名目で嫁さんの会社からチケットを発券してもらい、

それを私も使い香港と日本。

イギリスやオーストラリアと旅行をしまくっていた。

月に、数かい香港と日本を行き来するようなこともしていた。

今、思えばあの学生時代、

頻繁に飛行機を使い旅をしていた事が、

国境を跨ぐことへの抵抗であり、

国境と言う概念を私の中から取り除いてくれたのかも知れない。

日本を離れる

2006年4月に外苑前にある業務用換気扇を製造する企業に入社した。

当時も嫁さんと付き合っていたが仕事でのフライト、

そして休暇を使っての日本へのフライトはしんどかった様だ。

そしてある日、切り出された。

別れるか、

日本で仕事を辞めて香港で就職するか決めてくれと。

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