香港に、嫁さんの尻に惹かれ移住をしたのが2006年、24歳の時。その翌年から社会人として香港で働き出した。最初に就職したのは日系家電メーカ。電子部品の調達業務を担当していたので、中国を中心に東南アジアの国などにはよく足を運んだ。
入社1年目は、デスクワークがほとんどで、出張はあまり無かったが、2年目に入り、基板調達業務に携わるようなってからはかなりの頻度で出張をした。勤務していた香港オフィスはIPOと呼ばれ、日本にある本社調達機関の出先機関的な役割を持った所だった。本社と連携し現地サプライヤーの開拓は当然のこと、日本国内に点在するグループ内事業所の原価低減活動をサポートするため、探し出した優良なローカルサプライヤーの売り込み的なこともしていた。なので、肩書は購買ではあったが、業務内容のほぼ半分以上は営業的なものだったと言える。
原価低減サポート、優良サプライヤーの開拓と言えば、聞こえは良いが、実際は、はるばる日本からお越しになる本社や事業者の方のオモテナシ係だ。マッド系の淡水魚火鍋で腹を壊したり、中華料理による胃もたれになる方が出ないよう、日本料理屋を探したり、お客さんを退屈させないために若くて、綺麗なお姉ちゃん沢山いるKTVを探したりしていた。
今では、中国に限らずどこの国でも日本食を楽しめるが、あの当時の中国ではそうではなかった。特に、大きな街から離れた工場があるようなエリアで日本食屋を探すのは簡単ではなかった。日系の工場があるようなところでは、駐在者が通う日本料理屋はポツポツとあったが、そうではない、現地中国メーカの工場が多くあるような、街から更に離れた場所に日本料理屋はほぼない。
団体でくる事業者の方たちと、視察的に現地メーカを訪問する場合は、見学はちゃっちゃっと、切り上げ、ちゃんとした日本食を出してくれる店があるところまで移動したりもできた。
だが、新しいサプライヤーとして採用を前提で行う工場審査や訪問ではそうはいかない。工場を評価する技術者の方を先頭に、朝から晩まで工場内の作業工程や設備、工場内環境の確認。
そして社長やマネージャー、現場の作業員へのヒアリングを行ったりしていたので、大抵、夜6時過ぎまで工場の審査を行っていた。
採用を前提とした工場審査であるので、当然、親睦会を兼ねた恐怖の会食が準備されている。
気の利いた(日本人が好むレストランを知っている)営業マンがいる工場では、美味しい日本食が出せるお店や、それらが近くになければ、代わりに、日本人でも好む味付けの中華料理屋さんを会場に選択してくる。
だが、変に気の利く営業マンの場合は、どこからか、なぞの日本料理屋を探してくるので、そこが罰ゲームの会場となる。豚肉をさばいた包丁で生魚をさばき、SASHIMIを提供してくれた店。血が滴る激レアの串焼きを出してくれたお店など、非常にクリエイティブなお店が多かった。だが、お客さんにこれら料理を珍味とカテゴライズし、食べて貰う訳にはいかない。日本食が始めただと言う工場のマネージャーや、レストランを選んだ営業マンに、できるだけ食べてもらい、最後に残ってしまったものを、私がお客さんを代表し、瞳を閉じながら、喉の奥へ放り込んだ。食事会場で、正露丸を服用することなどできない。その代わりに拳大のワサビ(緑色をしていたがワサビかどうは謎)をかじり、ゲホゲホしながら、アルコール度数が低いビールで体内の消毒をした。
それにしても、家電メーカに勤めていた20代の半ばから30代にかけて、本当に色々な経験をしてきたと思う。まだ若かったということもあり、怖いものも無かった。とりあえず、なんでもやります。できますョ、と言うスタンスで、突っ走ってきた。テクニカルにノーと言うことなど知らなかったので、全てのことをアップアップしながら、引き受けながら経験してきたという感じだ。
正直、あまり購買という仕事が自分に向いていないことは理解していたので、I P Oに所属することで営業的なマインドと立ち位置で仕事をできたのは本当によかったと思う。ただ、あの当時はまだ若かったということもあり、働くと言うことを少し舐めていた。仕事としっかりと向き合っていなかったのも確かだ。だが、そんな中でも、あの当時の経験から知らず知らずに身についていたことがある。
それは、新しくパートナーとなるサプライヤーの審査や評価の仕方だ。工場の設備だけでなく、あらゆるポイントを過不足無くチェックし、長期で取引が出来る工場なのか、人なのかを判断してゆく。質問や日々のやりとりなどを通し、工場やそこの営業マンたちとコミュニケーションを重ねながら人柄だったり、社風的なところを把握する。だが、やはり何より重要なのは、現地での工場審査とタイマンでのヒアリングだ。
正直、朝から晩まで行う非常に気が重くなる、できることなら避けたい仕事だ。だが、どうしても私がこの仕事に関わらなくてはいけない理由があった。それは、本社や事業所の技術者の方が使う、日本語なのに、日本人でも理解し難い言葉を平易なことばに置き換え、通訳担当の、私より日本語の上手い中国人の同僚に、技術者の方の意図だったり、質問する理由、その背景などを付け加え、説明する必要があったからだ。
「先生の仰りたいことは、これこれ、そういうことでしょうか?私の理解あっておりますか」と、先生たちと確認をしながら、同時に通訳者にその説明をする。
言葉の裏にある本音や、日本人・その会社独特の商習慣、また技術者の方の独自の考えを、彼らが意図したことを分かりやすくシンプルに伝える必要があった。また先生の中には、遠慮がちな方もいたりするので、そんな時は、「先生、はっきり、言ってやってください」と背中を押したりもしていた。
長期に渡り、パートナーとして付き合っていくので、少しの誤解や認識のズレが、将来命取りになりかねない。工場を採用するかどうかの極めて重要な意思決定をするためには、しっかりと、両社がお互いを理解しあうことは絶対に必要だ。今思えば、あの当時のチャランポラン私が、こんな重要なシーンにいたことは、少し恐ろしい気もするが。。。
あの当時、訪問した工場がサプライヤーとして使ってもらっていると、今も繋がりのある先生から聞くとホッとする。
そして、あの時、買う側の人間として、技術者の先生たちに金魚の糞の様にくっついて、工場内を回り、工場側の人たちとガチのコミュニケーションをした経験は、転職をし、売る側の人間になったときにも非常に役に立った。工場審査の日は五感をフルに働かせながら、先生の視線の先を自分も追い、工場、そこで働く作業員の方を観察し、相手を知るための質問を投げかけてゆく。
どれだけ、聞こえの良い説明を受けても、工場や作業員の方たちを観察し、実態がそれら説明の裏付けとなっていなければ、減点され、最悪、新規工場としては不採用となる。この様な工場審査をかなりの回数行ってきた。しかも、短期間で同じことを何回、何十回と繰り返し、反復的に行ってきたので、嫌でも工場審査・評価の仕方が身についてくる。ある時期からは、工場に入り少し見学し、ヒアリングをすると、この工場はダメだなと直感的に自分で判断ができる様になっていた。審査の途中で、「先生方に、この工場だめですね」と、コソッと聞くと、静かにうなずいてくれることが、増えて行った。
保険のことに限らず、海外でのキャリア形成など、お気軽にご相談下さいね。
私の実体験に基づくお話になりますが、海外で働くこと。生きてゆくことについて、自分なりの
考え方をお伝えできればと思ってます。
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